成語のお話 ― “燕雀安知鴻鵠之志哉”

   秦の時代末期、農夫だった「陳渉」が一緒に働いていた仲間に向かって、「苦労を共にする友というのはいいものだ、金持ちになってもお互い忘れないようにしよう。」というと、友は「農夫が金持ちになれるはずがない。」と一笑します。陳渉は「ああ、燕雀安知鴻鵠之志哉(小鳥が大きな鳥の気持ちを分るはずがないか)。」と言って答えます。その後、陳渉は兵役に就きますが、厳しさに耐えかね、仲間たちと「陳渉呉広の乱」を起こし、一時期は「陳王」を名乗るほどになりました。その後、乱は秦の国によって治められてしまいますが、これが戦国時代の幕開けになったと言われてもいます。
   史記、『陳渉世家』のお話ですが、陳渉は乱を起こす時にも「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王や諸侯、将軍になるのに血筋や家柄が必要なわけではない)。」と仲間だった兵士たちの前で演説をしたと言われています。農夫から一時は王にまで登りつめた人の才能あふれる言葉として今も語り継がれています。
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成語のお話 ― 南柯一梦(nán kē yī mèng)

    唐の時代、淳于棼(ジュンウフン)という酒好きの男が、酔って庭のエンジュの木の下でうたたねをしていました。そこに槐安(カイアン)国の使者という2人の男が現れ、槐安国の国王のもとに連れて行かれます。そこで国王に気に入られた淳于棼は南柯郡の郡守にとりたてられた。国王の娘とも結婚をし、彼は南柯郡を良く治め、栄華を極めた。やがて敵国の侵略や愛妻の急逝で意気消沈していると、これを見た国王が帰国をすすめ、それに従って帰国したところで夢からさめた。夢からさめた淳于棼がエンジュの木の根本を調べてみると、寝台が入るほどの穴があって大きなアリがいた。これが槐安国王であった。また、もう一つの穴を調べてみると、南の枝に通じていて、これが南柯郡であった。
 この話から、「とりとめのない夢のこと、またはかないことの例え」になりました。ちなみに南柯とは南に出た枝のことです。
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故事成語で見る中国語-“楚人遺弓、楚人得之”

    孔子の生まれたころのお話です。楚の国の共王が狩に出かけ、自分の弓を忘れてきました。お供のものが弓を取ってこようかと伺うと「必要ない、楚の人間が忘れた弓を、楚の人間が拾うだけのことだ、わざわざとりに行く必要はない。」と答えました。この話は王様らしい腹の大きな話として伝えられていましたが、後に孔子がこの話を聞いて、「なんと小さい腹だ、“人間が忘れた弓を人間が拾うだけのことだ”と言えばいいではないか。どうして楚の人間だけに限るのだ。」と嘆いたと言うことです。
 このお話は史書『説苑』(ぜつえん)にあるお話で、国家という小さな枠を超えて「人間」と表現した孔子の話を足して、国家にこだわる「物欲」からの脱却を薦めるお話として残されたといわれています。
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成語のお話-“叶公好龙”( yè ɡōnɡ hǎo lónɡ )

  日本語に訳すと「葉公が竜を好む」といいます。「新序」の中のお話です。
  昔、「葉公」といわれる人がいました。彼は龍が大好きで、うちの屋根や室内の彫り物もすべて龍、絵を描いても、彫り物を彫っても龍、洋服の刺繍にも龍をほどこすほどでした。ある日、天界に住む龍がそのうわさを聞きつけ、葉公の屋敷まで降りてきました。龍が家の端にある寝室の窓から顔をのぞかせると、尻尾は反対の端のダイニングまで伸びているほどの大きさでした。本物の龍を見た葉公は、喜ぶどころか肝をつぶしてしまい、あたふたと逃げ出してしまいました。
  小人は本物に出くわすと思わず逃げてしまう、見掛け倒しで本物ではないことのたとえ話として、中国では、子供の絵本などにもよく乗っているお話です。
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成語のお話―“塞翁失馬、焉知非福”

   漢の時代、『淮南子』(えなんじ)の中にある「人間訓」からのお話です。
   昔、漢の国の国境沿いに占いの得意なおじいさんがいました。ある日、その人が飼っていた馬が逃げ出し、周りの人は「残念でしたね」と慰めました。すると、老人は「いや、子のことが吹くとなるかもしれない」と答えます。数ヵ月後、馬は別の駿馬を引き連れて戻ってきました。周りの人が「よかったですね」というと、老人は「いや、子のことが災いになるかもしれない」と答えます。事実、この駿馬で遊んでいた息子は落馬してけがをしてしまいました。人々が「かわいそうに」という中また老人は「またこれが福になるかもしれない」といい、1年後に起きた戦争に息子はこのけががもとで兵役に就くことを免れました。
 人生の幸福や不幸は見定めることは難しく、複雑に絡み合って予測できないという教えです。中国の故事にはこのような言葉はたくさんあり、「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉もあります。
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成語のお話-“天知,地知,子知,我知”

   後漢時代のお話です。宮廷では宦官がはびこり、官僚も腐敗していました。6代皇帝の安帝に使えていた楊震は博学で清廉潔白な人物をして知られていました。
    あるとき、彼が地方の政治を任されて出張していたとき、昔、目をかけて役人に取り立てた男が泊まっている宿に来てこういいました。「あなたに役人にしていただいて、本当に感謝しています。どうかこのお金を受け取ってください。」楊震は断ります。するとその男は「今ここには私たち以外は誰もおらず、知られることはありません。」といいます。それに対して楊震は「誰も知らないことはないだろう。先ず天が知っている、地が知っている、それに君も知っている。私だって知っているじゃないか。」と答えました。その言葉を聞いて男は恥ずかしくなって、お金を引っ込めたということです。
     この「天知る、地知る、子知る、我知る」は「楊震の四知」として『後漢書』の「楊震伝」に収められ、『十八史略』の中にも登場しています。
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成語“画饼”―「絵に描いた餅」

   三国時代、魏の国の初代皇帝になった曹丕は人材を推挙させるにあたって、当時人事を担当していた大臣の蘆毓(ろいく)に相談します。「適する人材を得られるかどうかは蘆毓の腕にかかっている。人材を官史に推挙する際にはその人物の名声に頼って採用してはいけない。名声というものは絵に描いた餅のようなもので食べることができず役に立たないものだから。」と。蘆毓はその通りに人事を行い、優秀な人材が集まったといわれています。
 ここから生まれた“画饼”はその後もいろんなところで使われるようになり、唐の時代の詩人白居易(白楽天)は「絵に描いた餅では飢えを救うことはできない」と詩の中で詠んでいます。また計画が失敗して無駄骨折に終わることを「画餅に帰す」といいます。

虎にまつわる成語―「苛政猛於虎也」

   昔のお話です。孔子が泰山のそばを通りかかった時、一人の女性がお墓の前で泣き崩れていました。孔子は弟子に分けを聞きに行かせます。弟子は「どうしてそんなに泣いているのですか?ただごとではなさそうなので理由をお聞かせ下さい。」と尋ねました。女性は「私の舅は昔虎に殺されました。私の夫もまた殺され、今度は息子までが虎に殺されてしまったのです。」と答えます。ビックリした弟子は、「それなのにどうしてあなたはまだこの土地にいるのですか、他の土地に移ればいいでしょう。」というと、「この土地には重税がないのです、だから私はここにいます。」と女性が答えました。
 この話を聞いていた孔子は弟子たちに向ってこういいました。「よく覚えておきなさい、重税や痛みを国民に押し付ける政治は虎よりひどいのです。」
  「五経」の1つ「礼記」のお話です。

成語のお話―「螳螂捕蝉,黄雀在后」

    春秋時代のお話です。呉の国の王、夫差が楚国を攻めることを計画します。臣下の者は口々に「その間に隣の国の越の国が攻め入ってくるからやめるべき」と唱えますが王様は耳を貸しません。そんなある日、夫差王の息子がビショビショに濡れたズボンをはいて父親の元にやってきます。理由を聞くと「花壇で遊んでいると、蝉が一匹飛んできて木に止まり、得意げに鳴いていたのですが、それを後ろからカマキリが狙っていました。しかもそのカマキリの後ろからはカナリアが狙っていたのです。私はそのカナリアを打ち落とそうと弓矢を構えたところ足元の水たまりに気が付かず入ってしまい、この体たらくになってしまいました。」と答えます。この話を聞いた夫差王は臣下の忠告の意味に気が付き、ハッとします。そして、楚国を攻撃する命令を慌てて取り消しました。
 この話から「螳螂捕蝉,黄雀在后」(カマキリがセミを捕えようとすればカナリアは後ろにいる)という言葉は「利欲をむさぼって後の危険を顧みない」ことを意味する成語になりました。

虎にまつわる成語-「前虎後狼」

   漢の時代、わずか9歳で皇帝になった和帝は、やがて成人し、外戚で、権力を握っていた實一族から権力を取り戻そうと、宦官の郑众に相談して、他の家臣を使い殺害します。その後、和帝は権力を自分のものにしますが、家臣の言うことよりも宦官の意見を重用するようになり、ここから宦官が政治の権力を握っていくようになります。郑众(ていしゅう)は有能な人で、和帝のために尽くしましたがその後の宦官は私利私欲に走ることが多かったため、漢の政治は次第に乱れていきます。このことから、歴史上、和帝の時代から漢は衰えたといわれます。
  「前虎後狼」(前門の虎、校門の狼)は、この歴史を見て趙弼(ちょうひつ)が書いた「評史」の中に出てくることわざです。「一つの災いを逃れても、又もう一つの災いが襲ってくる」という意味です。

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